オナニーをナゼ恥ずかしく感じるのか?
---恥ずかしさの元---
オナニーを人に見られて平気な人はあまりいません。何故でしょう?
もし見られて平気なら、あんなに場所について頭を悩ます必要はないのです。でも、やっぱりふつう人前でオナニーはできませんよね。もしやるとしても、それは別の意味を帯びてきてしまいます(露出オナニー)。セックスもそうです(AVの俳優さん達は特別ですね。)
実は、SEXの羞恥心というのは、罪悪感とは別物です。性の抑圧の歴史からくる「オナニーが悪いこと」という認識が改まったとしても、「オナニーが恥ずかしい」「SEXが恥ずかしい」と言う感覚は、別のところから生じているので、そう簡単に消えることはないでしょう。
このサブページでは、この羞恥心について考えてみましょう。
★オナニーが罪だった時代
オナニーは悪いことではないのですが、つい最近まで、なぜか人々の頭の中には、悪いことであるかのようなイメージがつきまとっていました。これには、近代から現代に至る日本の歴史の中で、「性」が不当に(訳あって?)抑圧されてきたという背景があります。
西洋社会では、宗教的な理由で、もっとずっと古い時代からオナニーは罪でしたが、日本では、江戸時代以前は比較的、性が開放的に扱われていました。オナニーも楽しみのひとつとして考えられていたのです。しかし明治になって、西洋思想、特にキリスト教に代表されるような、性を抑圧する思想が流入し、また、「富国強兵」「産めよ殖やせよ」という思想が、性に対する考え方を変えていきます。セックスは夫婦のみでおこなうべきもの、子供を作るために行うもの、これに反して、生殖に結びつかないオナニーは、無益なもの、無駄なもの、排除すべきものという認識が大勢を占めるようになります。「オナニーは悪いこと」「オナニーをすると馬鹿になる、健康に悪い」などという教育が幅を利かせていたのです。
もちろん、今はそういう考えは、ほぼ無くなりつつありますが、40代以上の世代は、ある程度こういった教育、あるいはその名残を受けて、罪悪感を持っています。
こうした「性は生殖のため」とする考え方と、逆に「性を楽しみ」とする考え方とは、いつの時代にも両方存在していて、そのバランスは様々な要因に左右されます。生活の余裕度、余暇時間の大小、貞操観念、相続される資産の大きさ、宗教思想、民族の文化、乳幼児の死亡率、男女の人口比、他の娯楽がどれくらい手軽に楽しめるか、などなど...。
中でも、生活に経済的余裕があるかどうかは、大きなファクターです。アフリカや中東などの、気候が厳しいところ、飢饉が頻繁に起きる地域では、食べていくだけで生活は忙しく、SEXも「入れて出してハイ終わり」みたいな味気ないものになるでしょう。ましてや、オナニーなんて楽しむ暇はないでしょう。
でも、豊かで余暇が多い国では、SEXも単に挿入するだけでなく、そこに至る過程を楽しんだり、いろんなバリエーションを楽しむようになります。 現在の日本のような生産性の高い社会では、SEXは余暇に楽しむものという認識に傾いていきます。そして、オナニーも性的快楽を楽しむための一つの方法として、認識されるようになるわけです。
経済的に恵まれていることは、性を楽しむためのベースです。そういう意味では、今の日本に住む私たちは、とてもラッキーな時代・場所に生きていると言って良いでしょう。
★なぜ人はSEXを隠すのか?
オナニーの前にまず、SEXの秘密性について考えてみましょう。
人は、SEXの話や、性的な話題を、公の場ですることを避けようとします。ましてや、SEXを人前で行うことは公然猥褻という罪にまでなります。人がSEXを隠したがる習性を持つようになった理由には、いろいろな説明が立てられます。
- 性行為を、他人の目の前でやると、いたずらに他人の性衝動をあおってしまい、他人の仕事や用事のじゃまをするから。
- 性行為中、他人、他の動物からの攻撃に対して、無防備になるから。
- SEXの最中は、大声を上げたり、理性が飛んだりして、いわゆる獣(ケモノ)的に見えてしまうので、社会的地位などが高い人は、その姿を公にすることを嫌う。
- ほっとくと、人は四六時中SEXをしてしまうが(?)、それでは生きていけないので、隠れてするという習慣(知恵)を身につけることで、自分にわざとブレーキをかけている。
- 自分のパートナーが魅力的な場合、他の同性がつられて発情して、パートナーを奪い合うことになるのを防止するために、隠れてやるようになった。
- 1対1でなく乱交の形式になった場合、男は、生まれた子供に対して、それが本当に自分の子供であることに確信が持てないから。
- 他の人にはSEXの快楽は分けてあげないよ、あなたとだけなんだよ、という意志表明のため。
などなど。
最後のは、わかりにくいかもしれないので補足すると、前の前のページで書いたような「快楽を与え合うSEXは他人と仲良くするため」というコミュニケーション仮説がベースにあるのですが、簡単に言うと「誰彼なく仲良くしちゃあ、あんまりメリットないじゃん、やっぱ特別な人とだけしなきゃあ」ということです。
他の人を割り込ませない、という排他性は「恋」という生理現象からも説明できます。
人に限らず高等生物には、恋をして一旦引かれ合うと、他の異性は目に入らなくなる/あなたに首ったけ状態/嫉妬により他の異性が相手に近づくのを妨害する、というように、他の異性を排除するような生理的な仕組みが備わっており、これこそが「恋」という現象だと見ることができます。
子どもを二人で育てた方がうまく育って生存確率が上がる、という生物では、2人の仲を継続的に保つために、「恋に落ちる」という生理現象を進化させてきたのだと、進化心理学は説明しています。そうしたペアにとって、SEXは二人だけの秘密の時間なわけです。
以上のように、SEXを隠すことに関しては、様々な正当な理由があると考えられます。しかし、「隠すものなのだから、それは悪いことなのだ」と教えるような曲がった教育があると、変な羞恥心を植え付けられて、性生活を素直に楽しめない人間が育ってしまいます。ここらへん、注意が必要なところです。
「悪いことだから隠すのではなく、隠す必要があるから隠すのだ。」 ここんとこ、ポイントですので、よく押さえておきましょう。^^)
隠すと、悪いことのように思ってしまうかもしれないが、悪いこととは思わないようにしよう。 みんなSEXしてるんだ、オナニーしてるんだと認めよう。人間とはそういう生き物なのだと認めよう。 っつーことです。
でも、やっぱりSEXを人前で見せたりするのは恥ずかしいですよね。悪いことじゃないけど、恥ずかしい。以下では、「隠すべきもの」から「恥ずかしいもの」に至る道筋を見てみましょう。
★恥ずかしいってどういうこと?
恥ずかしいという心理は、社会心理学的には、次のように説明されています。
「人は自分自身の印象を、他人の期待・予測に一致させようとする。そうすることは、他人との関係を維持することに役立つからなのだが、一致しない印象を与えるような出来事が起きたときに、人は恥ずかしいと感じる。」
分かりやすい例だと、
- いつもこなしている仕事を、うっかり失敗するところを見られると恥ずかしい。(この人はうまく仕事をする人だと言う期待がある)
- 女性が男子トイレに間違って入って、誰かと鉢合わせると、恥ずかしい。(女性は、男子トイレにはいないものだという期待がある)
- 普段から、無愛想で通っている人が、電車の中で、たまたま、席を譲ってあげたりすると、なんでこんなことしちゃったんだろう、俺らしくもない、と気恥ずかしくなる。(知っている人が見ていない場合でも、自分の中の客観視する部分が、自分はそんな親切なことはしない、という予測がある。)
といったようなことです。
もう少し、一般化して言うと、
- 普通に出来るようなことを失敗したから恥ずかしい。
- やっちゃいけないことをやるから恥ずかしい。
- そんなことをするのは、性に合わないから恥ずかしい。
というようなことになります。
要は、他人からの期待に合わないことが、恥ずかしいわけです。(たとえ、その期待が理不尽なものであっても、ね。)
人によっては、食べ物を食べているところを人に見られるのが恥ずかしいという人さえいます。こういう人は、自分は食べ物を噛んで口の中でグチャグチャ・ネトネトにしてから飲み込んでいるんだ、なんていう印象を他人に与えたくないんでしょうね。^^)
これを、SEXに関して当てはめると、「性的な事柄は隠すべきものなのに、あからさまに口に出したり、人前でSEXしたりすると、それは一般の人の期待に合わないと推測できるので、恥ずかしさを感じる」、ということになります。
オナニーも、人前でするのが恥ずかしいのは、同じ理由です。また、隠れてやっているにしろ、『他人から「この人はオナニーなんかしていないんだろうな」と思われている人』あるいは『「そう思われているだろう」と自分で思っている人』は、オナニーしていることが人に知られるのが恥ずかしい、ということになります。「オナニーしている自分」というのは、自分のイメージじゃない、というわけです。
逆に、『他人から「この人はいつもオナニーしているだろうな」と思われていると自覚している人』は、オナニーを見られても恥ずかしくないということになります。でもあんまりそんな人はいませんよね。^^;)
(鉄の芸術家のクマさんは大丈夫みたいですが。)
このように、SEXもオナニーも、それを恥ずかしく感じることは、ある程度仕方のないことなのですが、でもしかし、SEXは人が子孫を残すために重要なことですから、あまり過度に抑圧するのは良いことではありません。微妙な「ちょうど良い加減」が必要になる事柄なのです。
けれど不幸にして、性的な事柄に対して羞恥心を過剰に持って育ってしまう人たちもいます。逆に、あまり羞恥心を持てないで育ってしまった猥褻な人(?)
^^;)もいます。
次の項では、羞恥心がどのように育てられてるのかを見てみましょう。
★性に対する羞恥心の形成
人の社会、特に近代社会では、小さい頃から、性器を隠すべきものとして教えるしつけが確立しています。
例えば、3,4歳の小さい子が人前でちんちんを見せるのは全然気にしないけど、もう少し大きくなってくると、そういう姿をしている子供に対して大人は、「こら、パンツはきなさい。ほらほら、ちんちん見えてるでしょ。あー恥ずかし、ほらほら、パンツパンツ」てな感じで、パンツをはくことを教えるのであります。^^)
ここまでは正しい。こういう教え方ならば問題はないのだけれども、でもその際に誤って、過剰に「恥ずかしいもの」として教えることも、大変多く見受けられます。
一部のお母さんは、次のような教え方をしてしまいます。「こら、ちんちん(あるいは、オマタ)触っちゃダメ、汚いでしょ。」これはいけません。性器自体は汚いものではありません。排泄物はあんまりきれいぢゃありませんが、性器はきれいに保つべきもので、大事にすべきものです。「おしっこ、うんち」を汚いものと教えられるので、そこからの連想で、性器を汚いものと捉えてしまうのは、ある程度仕方がないことかもしれませんが、性器は、おしっこなどで汚れていなければ汚くないということもしっかり教えていくべきだろうと思うのです。
ここらへんを、うまく教えないと、SEXへの過剰な羞恥心や、性的な事柄への嫌悪感を育むことになります。 (中高年の世代は、純潔教育の影響で、性に対して、正面から向き合えない人が多くいますから、その子供の世代に、嫌悪感をそのまま子供に教え込む傾向が見られます。どうか、そのような人は気づいて悪循環を断ち切ってください。逆に、過度にオープンに育ち過ぎて、もーやりまくっているのに、STDに関する知識が乏しかったりするのも良くない現象なので、うまいバランスが求められます。)
女の子の場合は、スカートが羞恥心をしつけるための重要な仕掛けとなっています。
スカートは、めくれやすいものです。わざとめくれるようにしてあるといっても良い。女の子がスカートのめくれているのも気にせずに遊んでいると、母親が「○○ちゃん、パンツ見えてて、恥ずかしいなぁ」なんて教えるわけで、小さい頃から、「オマタや性器は隠しなさい」という意識を植え付けられるのです。(これはこれで、なかなか巧妙な方法だと思います。)あそこの辺りが「恥ずかしい」と教えることは、エロチシズムの源泉ともなるわけで、もしかしたら、親はそういうことも計算の上で(無意識かもしれないが)教育しているのかもしれない。「おまたをおっぴろげても恥ずかしがらない女の子」というのが、男にとってあまり魅力的でない、ということを知ってのことかもね?
さらに成長して、胸が大きくなってくると、周りの男性からの目がそこに集中してくることで、性的な意味を知るようになります。ブラジャーは、自分が性的存在であることを自覚させるためのシンボルでもあるのです。
太股とか、うなじとかも、同様に視線を集めます。こうした箇所にも恥ずかしさを覚えるか、あるいは、男性の気を引くための武器と捉えるようになるかは、それまでのしつけや、周囲にいる大人の女性が、どれくらい恥じらいを持って振る舞っているか、によって決まってくるのでしょう。
一般的に女性が性の話をあまりOPENにしない理由は、そのほうが、あまり男を知らないという風に見られるので、他の男の子供をみもごっていない確率が高い、と思わせることが出来るので、男の本能的な好みに合うと期待できるから、という説明が可能です。
ということを、お母さんも知っているので、(意識的にせよ、無意識にせよ)それを娘に教え込むために、いわゆる「ふしだらな娘」にしたくないがために、性的な話を娘とするのを嫌う傾向があります。(特に思春期に。)性的抑制の強いお母さんだと、その手の話題になると、「いやらしい!」という一言で話を打ち切られたりもします。ここらへんでも、性的なタブーの意識が育てられていくのでしょう。
でも、本来は、「ここだけの話で、他でしちゃダメよ」という約束で、性的な事はできる限り詳しく教え込んだ方が良いでしょう。「知っているのに知らんぷり」をすることが女性にとっては、重要な戦略なんだということを教えるのが、賢い母親だと思います。^^)
月々の生理も、性器周辺に嫌悪感を持つキッカケとなることがありますが、これも、処理方法、存在理由、などをうまく理解させる必要があるでしょう。
男の子の場合だと、恥ずかしい、というしつけもありますが、大事なところだから隠す、急所だから隠す、という教え方も多く見られます。こうした、ちんちんを隠すしつけから始まって、「女の人の裸や、ポルノグラフィ、ポルノ小説は、大人の見るものだから、見ちゃいけません。」なんていう教え方で、性道徳を教え込まれます。「まだ子供だから」という教えは、背伸びをしたいという欲求と、自分の成長が不十分かもしれないという不安の両方を刺激します。自信のある少年は、ませた行動に走るでしょうし、不安が高い少年は、自分を恥じ入る方向に追い込むかもしれません。
男子の場合、スカートのような巧妙な仕掛けはありませんが、羞恥心の形成で重要なのは、仲間同士の「からかい」です。例えば、小中学生の時期に、女子といっしょに居ると、うらやみ、ねたみにより、からかわれ、非難され、ときには、いじめにエスカレートしたりします。他にも、陰毛が人より早く生えたり、なかなか生えなかったり、皮が剥けたり、剥けなかったり、^^;)
(ねたみやからかいは、大昔から性的競争をしてきたオス同士の中で、少しでも抜きんでるために、人に埋め込まれた本能です。)
他の少年と同じかどうかを悩むこと、自分だけが違うのではないかという疑心暗鬼は、羞恥心の過剰な男性を作り出す可能性があります。(逆に、根拠のない虚勢を張りまくる男も)
人が社会で生きて行くには、羞恥心は必要です。でも、それが適切なレベルかどうかが大切で、過剰だと、様々なチャンスを逃すことになります。不足していると、社会的に不適合者の烙印を押されます。あなたの羞恥心のレベルは適正ですか?
★相手がいない
オナニーに否定的感情を持つ原因の一つに、「一人でするむなしさ」があるでしょう。本当はSEXがしたいのに、オナニーで間に合わせているんだ、とか、
SEXは番い(つがい)でするのが正常で、ひとりでするのは、相手がいなくて二人で出来ないから、しかたなく一人でするのだ、という感覚があるせいです。(定常的に相手がいないのか、臨時的にいないのかで、むなしさのレベルは違ってくるとは思いますが。)
一人でするということに関する「むなしさ」「後ろめたさ」、これは、本来、生物は子孫を残すために性的活動を行うべきもので、それに反した行為をしているということに対する、根元的な感覚なのでしょう。つまり、子孫が残せないということに対するコンプレックスです。
では、この感覚は克服することはできないのでしょうか?せっかくの気持ちいいオナニーが、この感覚のせいで、いまいち楽しめないのは、どん欲なオナニストには納得いかないことでしょう。^^)
そこで、次のような理論展開をお奨めします。
SEXの相手がいないというのは、いろんな場合が考えられますが、多くは、
- 異性に対する性的な魅力が、今一つ欠如している(要はモテないということ)
- コンプレックスなどにより、他人との接触を避けている
- 性的志向が特殊すぎるため、合う相手がいない
などではないでしょうか。
特に、ひとつめの場合が多いと思いますが、こういった人たちにも当然、子孫を残したい欲求、およびそれに裏打ちされた性欲は存在するわけで、でも、
SEXをする機会に恵まれないというジレンマがあるわけです。(こういった人たちに対して「性的弱者」というオブラートに包んだ表現も発明されていますが。)
でも、ちょっと考えてみましょう。子孫を増やすことが種としての至上命令だった時代には、子供を残せない者は、種を構成する個体として劣る者である、という考え方は正しかったと思います。昔のキリスト教などにも見られるように、それは罪である、とさえ考えられていました。
しかし、今の時代は人があふれている、人間が多すぎる時代です。少子化を懸念する人も多いですが、地球規模で見れば増えすぎ。また、局地的に見ても、生産効率はどんどん上がってきているので、人が少なくなっても、そう心配することはないと思います。少ない人数でも、今の生活水準を下げることなく暮らして行けるでしょう。
中には、人が多すぎることが、社会の色々な場所に歪みを引き起こしている、と考えて、子供は作らないという主義の人さえいます。 (この場合、SEXは日常的に出来るのに、作らないという人も含まれますが。)
では、子供を作らない人(あるいは作れない人)は、自分の遺伝子を後世に残さないことに納得しているのでしょうか?
実はこうした人たちは、思想とか、考え方とか、芸術作品とか、建築物とか、みんなが喜ぶ大きな仕事といったものを後生に残すということで、自分の生に意味を見いだしていると思われます。人に関する限り、遺伝子を残すというのは、DNAだけでなく、ミームを残すという方法があるということです。(思想や概念などは、一旦作られると言語などを介して複製されていくという意味で、遺伝子を持っていると見ることが出来ます。概念の遺伝子のことを「ミーム」(meme)と呼びます。人の考えたことは、ミームを介して遺伝して後世に残るのです。)
以上のようなことを考えると、子孫を残さないこと、男性・女性として魅力がないということに必要以上に劣等感をもつ必要はないと思われます。そんなことにコンプレックスは持たずに、好きなようにオナニーをすれば良いと思います。それを、自分で納得できるなら。
それは、ひとりひとりの考え方しだいです。
あるいはまた、SEXをする機会に恵まれない人は、せっせとオナニーをして、数少ない機会に失敗しないためにも、オナニーに励むべきだ、という考え方もできます。^^)
年月を経て、人口が減ってくればまた、子孫を残さないことは罪である、と見なされる時代がまたやってくるかも知れません。そのころには、再び、「オナニーは罪である」という考え方が復活するかも知れませんね。
★「恋愛」という名の呪縛
一人でオナニーする、ということに対して、多くの人が劣等意識を持つもうひとつの理由として、恋愛至上主義(ロマンチックラブイデオロギー)が蔓延していることが挙げられます。
TVドラマや、恋愛小説、ラブコメのマンガなどは、みんなして「恋愛が一番」、「恋愛しない人生なんて」、「恋愛しなきゃ人にあらず」、「熱烈な恋愛をしなさい」と訴えかけていますよね。これが、恋愛対象がいないことに対する劣等感を生み出す元になっているのです。
確かに、恋愛は人を活性化させます。生物学的な性淘汰によって、ヒトはそういうふうに進化してきた。恋愛感情によって強く惹かれあうような性質を持った個体は、そうでない個体よりもつがいとなる確率が高いので、子孫を多く残してきたのです。恋愛をすると、肌がキレイになったり、元気が出たりするのも、そういう個体のほうが有利だったから。恋をすると、とても気持ちがよいように作られている。(気持ちが不安定になるという弊害もありますが。)ヒトはそういう生物です。
だから、「さあ、みんな恋をしよう」という、恋愛至上主義の主張はそう 的外れなものではない。
だがしかし、それがすべてではないことも、事実です。
人にはいろんな人がいて、恋に落ちにくい人もいる。恋に落ちるには、相手に惹かれる感情にのっかる必要がありますが、感情を押し殺すことに慣れている人には、これは難しい。いつも理性で考えるから、恋が出来ない。
また、恋愛をするのに向いていない人もいる。性的魅力には、生まれつきのものと育てられるものがありますが、不平等なことに、前者は生まれながらにして個人差がある。また、後者にしても、うまく育てることができた人とできなかった人がいる。持たざる者にとって、恋愛をするということは、かなりの困難を伴うものです。
そうした人に対して、「恋愛しなきゃ人にあらず」という恋愛至上主義の主張は、酷というものです。
こうした「恋をしなけりゃ一人前じゃない」という一般通念が形作られた背景には、マスメディアの過剰なあおりがあり、さらにその背後には、恋愛行動において消費される商品の数々を、より多く売ろうとする企業の思惑が、見え隠れします。
化粧品、ブランドもののキレイな服、アクセサリー、ステータスを誇示するための高級車、時計、などなど。これらのCMには、ほとんどの場合、男と女のペアが現れ、見ている人に、恋の予感をほのめかすのです。「なまめかしい口紅をつけて、いい男を惹き付けましょう。」「高い時計を身につけて、オレはスゴイんだぞぉと、女性にアピールしましょう」「さあみなさん、商品を買って、恋をしましょう。」というわけです。
でも、惑わされてはいけません。必要以上に、「恋をしよう」と勢い込むのは、こうした企業の思うツボです。返すことができないくらいの借金をしてまで、こういった物を買う人たちは、恋愛至上主義の暗黒面(ダークサイド)に囚われていると言えるでしょう。
恋は絶対ではないのです。数年でさめてしまうものです。さめた後も関係を続けるには、別の努力が必要です。恋愛は、人生において確かに重要ですが、過度に重視することは止めましょう。恋は盲目というように、恋に落ちればほっといても重視するようになるものです。
それに、恋をしなくても、人は生きていけます。
★オナニーってやっぱり恥ずかしい?
以上見てきたように、オナニーを恥ずかしく感じる原因には、
- 性的な事柄は隠すべきものである、という社会認識がある
- 子孫を残せないのは、生物として遺憾である。^^)
- パートナーがいないのは、恋愛至上主義では許されない
- オナニーは悪いこと、と教える大人がいた。
といったことが考えられます。
上でも述べてきたように、1つめ以外は、考え方しだいで克服可能でしょう。整理すれば、オナニーを恥ずかしく感じる理由、感じなければいけない理由は、「悪いことでないけれども、隠すべきものである」という1点に絞られると思います。
「やっているのに隠さないといけない」、「やっているのにやっていないと言わないといけない」、この二重性は、本音と建て前が生まれる根本原理のひとつなのかもしれません。
このボーダーラインに関しては、線引きの位置を変えたほうが良いのではないか、という提言をここでしておきましょう。つまり
「心の準備が出来ていない人に、エッチをやっているのを見せてはいけないだろうけど、準備が出来ている人には見せてもいいんじゃない」、あるいは、
「心の準備が出来ていない人にでも、エッチやっていると言う程度ならいいんじゃない」というライン。すでに、今の社会では性的規範が緩みつつあり、そういう兆しは、見えていますが、 次の項では、今後の可能性に関して考えてみましょう。
★性的規範:ボーダーラインの変化
性に関する規範や言動が、昔よりも多く開放的になってきている裏には、労働の生産性が上がっていること、クリティカルな仕事に従事する人が減っていることが理由として考えられます。「他人の仕事のじゃまをする説」だと、大して重要でない仕事をしているときなら、多少性的な言動をしても良いんじゃない?ということになるわけです。クリティカルというのは、人の生き死にに関係する仕事や、あるいは、その仕事に失敗すると今日のおまんまが食べられない、といった仕事のことです。そういった仕事では、命がかかっていますから、おいそれとエッチなことを考えている余裕がない。ところが、例えば、現在の一般的な会社のデスクワークでは、向かいの席のあの子の胸元が気になって、しばし妄想に耽ろうとも、大して実害はないわけです。(少しくらい失敗しても取り返しが付くという仕事が増えている、と言い換えても良いでしょう。)
また、仕事に付いている時間そのものも減ってきており、余暇の時間には、性的な話題についてしゃべっても、問題ないわけですから、昔と比べて性的な言動が相対的に増えていると感じるのでしょう。
隠すことの元々の意味から考えれば、当サイトのように、インターネットの匿名性を利用しつつ、いたずらに性欲を刺激しないような形で、性の事を語っていく切り口は、これから重要性を増していくだろうと見ています。インターネットは、オナニーやSEXのことを話し合うには、とても好都合です。
社会の認識が変わっていって、(すでに変わりつつありますが、)誰でもオナニーはするんだ、SEXはするんだ、ということが表立った意識にあがってくるようになると、オナニーはそれほど恥ずかしいものではなくなると思います。
(そういった意味で、TVでお笑いタレントさん達が、「昨日、オナニーしてたらな、...」とか「帰ってオナニーして寝よ」とかいう発言は、社会認識を変えてくれるパワーを秘めているなぁと、期待しています。^^))
「ご趣味は?」「音楽鑑賞です」と言うのと同じように、「ご趣味は?」「オナニーです」と答えられる時代は、すぐ目の前に来ているのかもしれません。^^)
オナニーすることはいけないことなのか、というとこれまで見てきたように、全然いけないことではないのです。単に、おおっぴらにすることが、今の社会通念に合わないというだけのことです。
「隠れてすべきものだけど、悪いことではない。」 という点を再度強調しておきたいと思います。
そしてできれば、これからの社会は、「オナニーは身体にも、心にも良いこと」という常識を採用していって欲しいものだと思います。
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